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また 泣く                                        [他人様の文章]

34 :カールとさつまいも :2000/03/07(火) 18:11

小学生の頃よくやってた誕生日会。
仲良くなかったんだけど母親がどうしても呼べという子がいた。
クラスでもちょっと毛色の違う子。
その子からは算数のノートを1冊もらった。
正直どうでもよかったのを覚えている。
それから数ヶ月してその子が、廊下に私を呼び出して
自分の誕生日会をしたいから家に来てと言った。
仲良くないので行きたくなかったが
母とサンリオのグッズを選んで結局行った。

家にはその子以外だれもいなかった。
テーブルに置かれたカール。
ケーキもごちそうもそこにはなかった。
「これ全部食べていいよ」
結局2人で食べたんだけど
その後その子がさつまいもをふかし始めた。
料理するなんて驚いた。だってまだ小2。
慣れた手つきで出してくれたさつまいもは
びっくりするほど美味かった。
ずっと「ピアノがあっていいな」と言われてた気がする。
私は「今度弾きに来ていいよ」とは言わなかった。
帰り道母親がその子を呼べといった意味が
何となく分かる気がした。

カールとさつまいも。
彼女の思い出とは切り離せない。




42 :明るい田中麗奈 :2000/03/09(木) 18:39

小学生の頃、仮面ライダーカードを集めていた。
カードはスナックのおまけで1袋に1枚ついていて、
それが欲しくてスナックを買っていた。
カードを揃えるためには、
ダブっているカードを
他人と交換(私の土地では「ばくる」といった)しなければならないので、
違う学校にまでカード仲間がいたものだ。

隣町の学校に熱心な友だちがひとりいた。
そいつと二人で町中の自販機巡りをして、
返却口や機械の裏や下に手を伸ばして落ちている小銭を集めて回った。
1ヶ月ほどするとまとまった金になったので
そいつがスーパーに行って1箱まるごと買ってきた。
50個程のスナックは壮観だった。

カードを山分けしたあと、スナックを私の家の押し入れに隠し、
次の日曜に基地(空き地につくっていた)でまとめて食う計画を立てた。

ところがスナックは学校に行っている間に
母親にみつかって
知らないうちにどこかの施設に寄付したかなにかで
とにかく処分されてしまった。

母は私たちがスナックにはまったく興味がないと思ったらしい。
当時カード目当ての子供が
スナックを食べずに捨てているという記事を書いた新聞があったのだ。

そのスナックを楽しみにしていた友だちは随分怒ったものだ。
私もひとつも食べることなく消えてしまった
大量のスナックの味というか食感を
想像したことがいまもわすれられないでいる。

子供の頃は、
ひとつの袋に入ったお菓子(たとえばレギュラーなサイズのポテトチップス)を
いつか自分ひとりで全部食べられるようになるなんて思っていなかった。
そのときのことをいつか文句を言ってやろうと思っているうちに大人になり、
母は還暦を迎えようとしている。




46 :おばあちゃんの味で :2000/03/10(金) 04:46

思い出すのがポテトサラダ。なぜか味付けが妙に酸っぱくて・・
子供の頃の私はこれが苦手で、その印象かポテトサラダは酸っぱいものと
信じてました(笑)。そんなおばあちゃんとも理由あって離れることになり
この酸っぱいポテトサラダも食べる機会はなくなりました。
先日しばらくぶりに、おばあちゃん家に遊びに行ったときのこと
帰り際 このポテトサラダをお土産に持たせてくれたのです。ありがとうと
云いながらも私は困惑していました。だっておいしくないんだもん。。
ところが 懐かしさに負けて一口食べてみたら…意外にもおいしい!!
ほとんど一気に食べてしまった。味は相変わらず酸っぱいのだけれども
初めておいしいと感じました。ほかでは食べられないおばあちゃんの味。。
大人になってから食べるとこんなに印象が変わるなんて、、
ごめんね、子供だった私はこのおいしさに気づかなかったよ。
今度レシピ教えてね、おばあちゃん。




61 :名無しさん :2000/03/10(金) 21:58

東京のお嬢さん育ちの母は、田舎にある父の実家が嫌いだったようだ。
私が子供の頃、母と一緒に父の実家に遊びに行った時、
祖父が「帰りの電車の中で食べろ」と言って、
わら半紙の紙袋からはみだしそうなぐらい、
たくさんお菓子をくれた。
どぎつい色のついたゼリーや、
見たことがないような袋菓子がたくさん入っていた。
電車の中で、
私が「おじいちゃんのお菓子食べようよ」とせがんでも、
母は無言だった。
東京に着き、
駅のホームで母は紙袋の中のものを見ながら、
「何よこんなもの」と言い、袋ごとゴミ箱に投げ捨てた。
それを見て、私は泣いた。

母は「もっとおいしいお菓子買ってあげるから」と言った。
私は、お菓子が食べられなくて泣いていたのではない。
孫のために、
一生懸命お菓子を選んでくれた祖父のことを思い出して
悲しくてたまらなかったのだ。

お菓子を手渡してくれた時の、
うれしそうな祖父の顔。

あの祖父の顔を思い出すと、今でも泣けてきます。

いい話でも食事の話でもなくてごめんなさい。





70 :高卒後 :2000/03/11(土) 06:15

一人暮らしを始めたんだけど、親がよく米とか野菜送ってくるじゃん。
そういう荷物の中に、たらの芽が入ってたんだよ。
その日、母からの電話で「送ったたらの芽、天ぷらにすると良いよ」
なんて言われてさ。でもマンションの電化コンロじゃ天ぷらなんて出来ないから
「もうちょっと考えて送ってくれよー」なんて答えちゃって。

その2日後、用事があって実家に帰ったとき、母が手に絆創膏貼ってるのね。
最初見たときは「またなんかヘマしたんだろ」なんて思ってたんだけど、
妹から話を聞いたら、たらの芽を取りに行ったときに怪我したって。
知ってる人もいると思うけど、あれってトゲがあって採るときに刺さったりするんだよね。
それ聞いて、俺のためにわざわざ採ってくれたのかー、ってすごい罪悪感覚えた。

マンションに帰って、段ボールの中で痛みかけてたたらの芽を出して、
浅いフライパンで無理矢理に天ぷら作って食べた。
衣が生っぽかったのを今でも覚えてる。





99 :若き日の過ち :2000/03/13(月) 08:52

十年前の誕生日、主人に嘘をついて恋人ととある山荘にいました。
浮気のつもりが本気になり、彼と一緒に死ぬつもりだったのです。
奇しくも、恋人が私の誕生日のために料理を作りはじめた時、
山荘の扉が開いて主人が現れました。
言ったのはただ一言。
「帰ろう。」それだけ。
私を詰るでもなく、私の恋人を殴るでもなく。
それから三時間、車に揺られて自宅まで戻りました。

無言の車内でしたが、どんなにショックをうけていても、
空腹にはなるものですね。
ぐーぐー私のお腹が鳴っているのが聞こえたのか
主人は寂れた町に立ち寄り、
ファーストフードのドライブスルーで
ハンバーガーとポテトフライを買ってくれました。

「食べなさい」とまたまた一言だけ。
普段はファーストフードなんて大嫌いな彼なのに。
私はハンバーガーをかじりながら、
何がおかしくて自分の誕生日に、車の中でファーストフードの
ハンバーガーを食べなきゃいけないんだと考え、
泣けて泣けて仕方ありませんでした。
主人に謝ることが出来たのは、
ハンバーガーを食べ終わって
やっと一息ついた頃。

一緒に死のうとまで心に決めていた彼とは
それ以来会うこともありませんでした。
彼が作ってくれていたドイツ料理も、
覚えているのは匂いだけです。

結局私は主人のもとに残り、
十年経った今は何とか普通に暮らしていますが、
今でもあのハンバーガー・ショップ(チェーン店)の
看板を見かけると申し訳ない様な、
切ない様な思いが胸一杯に広がり、
鼻の奥がつーんとして視界がぼやけてきてしまいます。




101 :茶々 :2000/03/13(月) 12:24

彼氏が中古だけど車を買ったので、ドライブで海に行こう!
という事になりました。

車の中で食べようと、浜辺でつぶ貝の醤油たれの串焼きを買って
隣で彼氏が運転して、私は串焼きを食べていました。
串焼きはおいしくて夢中で食べてたら、
片手でもっていたスチロールのトレイが傾いて、
座っているシートにもちょっとタレがこぼれてしまいました。
しまった!と思い
あわててウェットティッシュでふいても
染みは取れません。

車内に甘辛いたれの匂いが広まっていって、
彼に申し訳なくて半泣き状態で謝ったら、
突然彼は運転しながら大笑いしはじめました。
「夢中で食べているから、いつかこぼすと思っていたんだよ」
「だったら、一言言ってくれれば良かったのに」
「車は中古なんだから別に気にしなくていいよ。
おいしそうに食べているから、邪魔したくなかったんだよ。」

うれしくて、申し訳なくて、
心の中がじわーんと暖かくなったのを
覚えています。




123 :名無しさん :2000/03/14(火) 15:49

中学生の頃、悪さ仲間と家に溜まってた時友人が「お腹空いた」
と言うのであり合わせの材料でチャーハンを作ったんです。
そしたらみんな美味しいって平らげてくれて嬉しかった。
その後も数回家に来て「あんたのチャーハン美味いから食べたい」
って言われて、その度にぺろりと食べてくれた。

その頃の仲間とは仲違いしたり離れたりで誰一人として付き合い無いけど
たまに作るとその頃のこと思い出したりして懐かしい気分。




122 :名無しさん :2000/03/14(火) 15:05

子供のころから唐あげが大好きだった。
ある日学校から帰り、急に食べたくなり、母にすごくせがんだ、
いつもなら「明日ね」とあしらわれるのだが、
その日はあまりのしつこさに
「もう、わかった、わかった」とお皿にどっさり作ってくれた。

そして母は買い物に出かけていった。
その帰り母は事故にあった。
買い物袋にはまだ
食べ盛りの子供に食べさせるためだろう、
鶏肉と唐あげ粉が入っていた。
もう二度と味わえないあの唐あげ。





129 :名無しさん :2000/03/14(火) 19:20

ばりばりのキャリアウーマン(のはしり)だった祖母は料理は全く駄目。
三度の食事はいつもお手伝いのおばさんの仕事でした。
ところが祖父が死の床に就いた頃、
祖母は自ら台所に立ち、
料理らしきものを作って祖父のもとへ
運んで食べさせてあげるようになりました。

私は当時五歳か六歳。
祖父を見舞いに行ったら、
ちょうど祖母が昼食の用意をしているところに出くわしました。

「ああ、ちょうど良かった。加奈子も食べて行きなさい。」
祖母の手料理なんて食べたことがなかったので、
期待と不安でいっぱいでした。
で、出された料理は、
お味噌汁の中にご飯が入っていて、
煮込んである奴でした。
しかも、まずい。

「おばあちゃん、これ、全然おいしくない」

一口だけ食べて投げ出してしまった私に
謝りながら祖母は
同じ食事を祖父のもとに運んでいきました。
お匙にその雑炊(もどき)をとって
祖父に食べさせてあげている姿を、
私は黙って見つめていました。
「うん。うまい。うまいなぁ」
祖父はにこにこしながら
与えられた食事をおいしそうに食べています。
子供心にびっくりしたのを覚えています。
その後、こっそり居間に戻り、
冷たくなった残り物の雑炊(もどき)を
食べてみたのですが、やっぱりまずかった(笑)。

でも今でも、
嬉しそうに「うまいなぁ」と言って
妻の手料理を食べていた祖父の姿と、
誇らしげに食べ物を口に運んであげている
祖母の姿が忘れられません。

あの、煮過ぎで辛くなった雑炊(もどき)の味も・・・。




156 :!WU? :2000/03/17(金) 12:56

おなかすいた、でもなにもないや、、、
と思った瞬間に思い出すのが、
おかんが送ってくれたインスタントラーメン。

普段「インスタントなんて食べると身体壊すよ!」って言ってるのに、
なぜか送ってくる荷物の中には必ず入ってる。
きっと自分のものぐさな性格を見抜いてるんだろう。
茹でただけのラーメン、具もないラーメン。
だけど送ってくれたおかんの顔を思い出すと、
おいしく食べられるんだから不思議なもんだ。
母の日にはおいしいもんでもこっちから送ってあげたいな、と思う。





168 :お好み焼き :2000/03/18(土) 04:22

それは叔母がホスピスに移る少し前のこと。
叔母は乳癌が再発して肺に転移し、
余命数ヶ月と言われていました。
遠くの大学に通っていた私は、
帰省したときに叔母を見舞いに行きました。
叔母はこの時すでに告知を受け、
病院を離れ、実家に戻っていました。

私が訪ねたとき、
叔母はときどき咳をしつつ、
お好み焼きを作っていました。
思い残すことがないように、
食べたいものを食べておくのだと。
「○○君もどう?」 私の分も作ってくれました。

そのお好み焼きは本当に美味しかった。
でも、
(あと数ヶ月でこの人はこの世から居なくなってしまうのだ。四十代の若さで)
そう思うと、悔しくて、悲しくて、胸が詰まってしまい、
私はほんの数口しか食べられませんでした。

どうしても食べられなかった。

ごめん、さっき家で昼ご飯食べたからと言い訳すると
そう、と叔母は寂しそうに笑いました。

結局、これが今生の別れになってしまいました。
叔母を偲び、時折お好み焼きに挑戦することがありますが
どうしても、あの味には到達できません。

あのとき、自分も作るのを手伝ったのですが…
無理をしても全部食べておくのだったと、
今でも悔やまれてなりません。




169 :へちま化粧水 :2000/03/18(土) 07:00

みなさん、いいお話で、
こんな朝から電車の音を聞きながら
ちょっとうるうるです。

私のは「いい話」じゃないけど・・・
彼とつきあって、初めてお泊まりした次の日。
近所のイトーヨーカ堂で
二人でお買い物をして、
「なんだか肉が食べたい」という彼のために
ステーキを焼いてあげよう、
と思いつきました。

そう思って当時お金持ちだった(浪人中のバイトとかで)彼は
けっこういい肉をぽんとカゴに入れて、アパートに帰り、
わたしはごはんを作ってあげることにしました。

なにかステーキソースになるものぐらいあるだろうと思ってたけど
ひとり暮らしを始めたばかりの彼の部屋にはなんにもなくて、
サイコロステーキを焼いて、
そこにおしょうゆをじゃーっとかけて
それを出しました。

実家でよくやっていて、けっこうおいしいんですよ。
(強火でジャッとしょうゆをやるのがポイント)

彼はおいしいおいしい、って全部食べてくれて、
どうやって作ったの?
って言いました。

おしょうゆだけ、って言ったら、すごく感心してくれて
あとになって言うには「この子がいい」って、
その時に思ったそうです。

いまでも彼は「ああいうのが食べたい」と言いますし、
よく作ってあげるのですが
なかなか思い出の味、
というものにはならず(笑)、
「ちがう!」と
文句を言われます。
でも、かならずおいしかったって残さず食べてくれる
彼のことが、私は大好きです。
実際私は、ステーキとか、いわゆる洋食より
煮物を作ることが多く
彼も私の鶏じゃが、ブリ大根なんかを食べることのが多いです。
でも、
「お前が作るめしばっかりで、
他の煮物を食べるとなんか違う、って
いつも思う」って言ってくれて、
なんかうれしいような、くすぐったいような。

昨日ケンカして「あなたのそういうのが大嫌い」って言っちゃったけど、
ホントは世界で一番好きです。ごめんね。





171 :二流サラリーマン :2000/03/18(土) 11:07

ギャンブル好きな父は、幼稚園に入ったばかりの僕の手を引き、
よく、日曜日、横浜桜木町の場外馬券売場に足を運んだ。
けれど、レースをするのはいつも途中まで。午後になると必ず
桜木町の駅に戻り、当時あったミルクスタンドで、
ホットドックを買って、僕に与えた。
ケチャップの甘辛い味と、やわらか歯ごたえが好きだった。
口の周りをケチャップで赤くした僕の手を引きながら、
いつも父の足は横浜港へ向かった。
空飛ぶカモメと港を行き交う船を見ながら、
港湾労働者だった自分の仕事を話をたくさんした。そして、
いつも最後は「この港が大好きだ。この港を支えるような大人になれ」
と僕の肩を掴んだ・・・。

あれから25年。期待にロクに応えられない息子で申し訳ない。
ギャンブルも酒も好きで、小さいアパート暮らしだったけど、
最後はマンションまできちんと買った。オレより遙かにしっかりしてる。
この間、風呂上がりに見た父の足のスネが、筋肉隆々だった面影もなく、
本当に細くなっていたのに驚いた。
ごめん、これから、もっと頑張るよ。





175 :名無しさん :2000/03/18(土) 18:58

10年程前、当時高校生だったTとオレとで山登りをした。
登山といえるほど本格的なものじゃ無いけど、テントを担いでいって
一泊の予定。
夜になり晩飯にはお約束のカレーを作って食った。
頂上までは後少しだったし
荷物が重くなるのが嫌で食料はあんまり持ってきてなかった。
「とっとと寝て朝早く出発しようぜ。」
夜中になって自分達の甘さを思い知らされた。
春だから軽装にしたがその寒い事寒い事、とても寝てられない。
腹も減ってくる。
歯をガチガチ言わせながらお互い泣きそうになってたら
Tがカップラーメンを2つ持ってきたのを思い出した。
周りから急いで木を集めてきて火をつけてお湯を焚いて
カップラーメンを寒さに震えながら食った。
そのうまい事うまい事。
白い息を吐きながら
「んとに美味いなぁ、今世界中でカップラーメンを一番美味いと
思って食ってんのは間違いなくおれ達二人だけだなぁ、はは」
ゲラゲラ笑いながら一気に食った。
結局眠れずに色んな話をしたけど合間に
「カップラーメンを一番美味いというおれ達だけどな」
なんて冗談を言い合ったりした。
ゲラゲラ笑いながら一晩中。
ホントににうまかったんだよ。

卒業後の進路もバラバラで余り連絡もしなくなってた頃、
Tが自ら命を絶ったことを聞いた。
理由はわからないし聞きたくも無かった。
葬式には出れなかったけどTには
こう言ってやりたかった。
「馬鹿やろう。
世の中にはカップラーメンよりも
もっともっと美味い食べ物が一杯あるんだぞ。」





176 :まい :2000/03/19(日) 02:34

末の弟が幼稚園の頃、
兄弟3人でパイナップルを並んで食べていたら
父が急に泣き出した事がありました。

私の父の父(私の祖父)は、終戦の前後、
ある都市の捕虜収容所に勤めていたそうです。
時々アメリカ軍の飛行機が飛んで来ては、
毛布や缶詰などの物資を
落下傘で収容所の近くに落として行くのだそうです。
もちろん、収容所に勤務するものがその物資に
手を付けるのは御法度でしたが、
祖父は決死の覚悟で(見つかったら、半殺しの目にあったとか)
パイナップルの缶詰を持って帰り
自分は一口も食べる事無く、
全部を7人の子供に食べさせ、
それをにこにこと見守って見ていたそうで
父は、当時、末っ子で5歳、
「親父は、どんな気持ちで、わしが食べるのを見てたのかと思うと胸がつまる。」と、
ぐっと来たそうです。

もともとからだが丈夫でなかった祖父は、
3年後結核で亡くなりました。

で、父の還暦のお祝いに親戚が、集まったとき
ちょっと、いたずら心が働いて
パイナップルの缶詰を、叔父や叔母達に出して
「お父さんたら、泣き虫で、これ見たら泣くしかなんわ」
と、祖父の話に水を向けると、
兄弟皆が泣き出してしまいました。
「あんなに、ぼこぼこにへこんだ缶詰を抱えて走ったお父さん、
どんな気持ちだったんだろうね。」とか、
「学校に行って友達に自慢したくても、
お父さんに口止めされてたからできなかったのよ」と
口々に想い出話が、出ましたが
人の大切な想い出を、汚してしまったようで少し後味が悪かったです。
ごめんね、お父さん。大切な想い出に、いたづら心なんか働かせて
と、すごく反省しました。





182 :181 :2000/03/20(月) 14:40

小学生の頃、一人っ子で、
鍵っ子だったぼくの土曜日の昼食は冷えたオムライスだった。
毎週といっていいほど、ケチャップをつけてラップをかけたオムライスだった。
朝から夜まで働き通しだった母が
忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。
そんな事はすっかり忘れていた一昨年、
私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。

自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、
早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。
ある日、昼過ぎまで寝ていた私が
台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、
オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど……
お母さん、私は永遠にあなたの息子です。




199 :名無しさん :2000/03/21(火) 23:58

小学生の頃、塾の帰りが遅くなったとき
同じクラスの男の子が自転車で追いかけてきて、
「先生が送っていけってゆーから」と、つまらなそうにいい
私の家まで一緒に、自転車を押してついてきた。

途中、彼は私に「おごりだからな」と
つぶつぶオレンジを買ってくれた。

彼はいつもバカなことや、私を怒らせるようなことをいうのに
このときは、家に着くまで一言もしゃべらなかった。
私は、そのいつもと違う様子にどきどきして、
ジュースばかり飲んでたんだよな。
みょーにのど乾いてたりして。
異性を意識したのってこれが最初かもしれない。

今も恋人にジュースを買ってもらうと
この時のことをちょっとだけ思い出す。





214 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:41

叔父の家は、ウチから電車で1時間位の所で蕎麦屋を営んでいて
ちょくちょくと遊びに行っては美味しい物を食べさせてくれたり、
夏休みに一寸仕事を手伝っては結構な額のお礼を貰ったりと
可愛がって貰っていました。
産まれて初めて「ステーキ」なるものを食べたのも叔父の家でした。
叔父が焼いた「ステーキ」は当時、我が家では牛肉を滅多に
食べる事も無かったので、妹と二人でとっても喜びました。

それから、何年かして僕も社会人になっていた有る日の事
叔父が癌で発見が遅れた為、開頭手術をしても患部は全て
取り除けなかったと母から言われました。

手術後、妹と見舞いに行き、
自分が癌である事を知らされていない叔父は、
「早く、店を開けなくちゃナ」と言ってリハビリをしていました。
叔母が病室の外で「抗がん剤で気分が悪い筈なのに、
メシを食わないと力が落ちるからって無理にご飯を食べているんだよ」
って泣きっぱなしでした。
帰り際に、妹が「叔父さん、またステーキを焼いてね」、
叔父が「うん」と一言。

数週間後、
叔父の娘さん(従兄弟)が予定を繰り上げて
結婚式をするとの事で出席し、
そこで見た叔父はメッキリと老けてはいましたが、
結構シッカリした様子なので少し、安心しましたが、
その数日後、
従兄弟が新婚旅行中に逝ってしまいました。

今でも、あの叔父が作ってくれた
2度と食べれないステーキが忘れられません。





230 :親不孝者 :2000/03/24(金) 05:42

高校2年の秋、母が癌で入院した。
若干マザコンの気があった私は毎日学校が終わると病院に直行し
面会時間が終了するまで母と一緒に過ごしていた。
ある日、学校ですごくイヤなことがありムシャクシャした気分のまま
病院へ向かったのだが、病院の駐輪場で自転車の置き場所のことで
警備員にちょっとキツメに注意され、
不機嫌だったこともあり口論になってしまった。
ますます不機嫌になった私が
母の病室に着いても憮然としたままでいると
母は気を遣って
お見舞いのフルーツ籠からバナナを1本取ってくれた。
当時はバナナが大好物だったのだが、
まだ幼かった私は気分の切り替えが出来ず
不機嫌な顔のまま「いらない」と言ってすぐに家に帰ってしまった。
母はキョトンとした顔で私が病室を出て行くのを見送っていた。
それから2、3日の間気まずい思いで病院に行かなかったのだが
次に会いに行った時には母の病状が急激に進行していて
会話すらまともに出来なくなっていた。
その後は死相の浮かんだ母の顔を見るのがイヤで、
結局臨終まで病院に行けなかった。
なぜあの時もっと母に優しくできなかったのか。
なぜあの後今まで通り会いに行かなかったのか。
あれから10年以上経つけれど未だに当時の自分が許せない。
そしてその時以来バナナが食えなくなりました。






252 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:54

私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、
父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。

母や私達を嫌っていた祖母は、
朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。
そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。

ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、
母は甘えつく私達を何回も抱っこしてくれました。

夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、
何か誇らしげな表情を見て嬉しくなった私は、
その紅潮した頬っぺたに
何度も自分の頬っぺたを擦りつけて家に帰りました。



253 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:55

家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。
母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。
私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。
しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、
母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、
ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、
目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。

小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、
私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。

悲しさと悔しさの恨みの味…
















      

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